2009-11-02
■背理法はなぜ証明になるの? という話
の第4章は「背理法」でした。
背理法とはなんだったでしょう?
背理法とは《証明したい命題の否定を仮定して矛盾を導く証明法》のことである。
とあります(p98)。
「矛盾を導く」とはなんだったでしょう?
「矛盾を導くというのは、
《Pである》かつ《Pではない》
を示すこと。Pは、どんな命題でも構わない。
でした(p106)。
さて、では、なぜこれが証明になるのでしょう?
という話をしたいと思います。
なのですが……、これを学校で習った覚えがないのです。
を見ても……書いてありませんね。
なので、つらつらと考えていました。そう、ここから書くことは、自分で考えたことです。
なので単純に間違っているかもしれません。お気をつけを。
そのつらつらと考えていたことが、
を読むことで(「読み返すことで」と書いた方が正確だけど、それはどうでもいい話)形になりました。
それでも間違っているかもしれません(ちょっとしつこいか)。
ある命題Aについて、証明ができるのかどうか? ということを考えます。
- Aだけが証明可能
- ¬A(Aの否定)だけが証明可能
- Aと¬Aの両方が証明可能
- Aも¬Aも証明できない
の4通りです*1。
背理法で命題を証明するには、Aの否定を仮定するのでした。
実は私は「Aの否定を仮定する」という意味を取り違えていたのではないか、と思ったのです。
「数学ガール/ゲーデルの不完全性定理」のp136、公理についてのテトラちゃんとミルカさんの会話から。
「では、数学者がa prioriに公理が真だと仮定したのですね」
「それは違う。真偽は出てこない」とミルカさんは言った。
(略)
「あの、あの、あのですね……
《真である》と《証明されている》は、違う概念
……なんですか?」
の部分です。
もしかして、
「命題Aの否定が真であると仮定する」
ではなくて、
「命題Aの否定が証明可能であると仮定する」
の方なのでは?*2
もう一度書いてみます。
- Aだけが証明可能
- ¬A(Aの否定)だけが証明可能
- Aと¬Aの両方が証明可能
- Aも¬Aも証明できない
元々の公理系で、「2.¬A(Aの否定)だけが証明可能」だったとすると、Aの否定を仮定しても矛盾がでてくるはずはありません。
「4.Aも¬Aも証明できない」でもそうです。
「3.Aと¬Aの両方が証明可能」であれば、もともと矛盾があるわけですから、Aの否定を仮定しても矛盾がでてくるのは当然ですね。しかし、しかしですね、Aの否定を仮定したら出てきた(=背理法の証明のために導き出す)矛盾はAの否定を仮定しなくても出てくるはずです。でもそうはならない。そうはならない《はず》ですね*3。
そうすると残るのは、「1.Aだけが証明可能」です。
はい。
こうやって考えてみれば、Aが証明可能な公理系に¬Aを公理として加えれば(これの意味するところが「命題Aの否定が証明可能であると仮定する」なわけですが)、矛盾が出るのは当たり前ですね。
背理法というのは、つまり、そういうことなのかなぁ、などと考えたわけです。
おしまい。(続きはありません)
2009-11-11
■なずなのねいろ 2
面白い。
……とは思うのだけど、"重い"話に過大評価になっているのかも? とちょっと(自分を)疑ってもいる。
しかし続きが気になる。数少なくなった、早く次を! と思える作品の一つであるのは確か。
2009-11-12
2009-11-19
■小学校の就学児検診でゲーム脳
が紹介されたらしいよ。
キャー! ヤメテー!
2009-11-28
■パラドクスブルー2
口絵部分。
「ゲームはいいよな。失敗してもリセットでやり直せるのだから」
「まあ失敗しても再挑戦してクリアする。ゲームの醍醐味ではあるな」
「でもあれってさ、ゲーム側のキャラからみればどういう感覚なのだろう」
「というと?」
「失敗したことはなかったことになり、成功した事実のみが残る。
失われたものは思い起こされることはなく、ただひたすら成功した世界が続いていく。
……それはきっと、少しだけ歪な世界」
これを読んで、ゲームの
失敗してパーティが全滅すると、その少し前(というと曖昧だが、しかしこれの意味するところは「セーブした地点」であるのは読めば明らかである)に戻される。
その事実を「主人公だけが記憶にとどめている」というもの。
うっかり強力なボスモンスターの手前でセーブしてしまい、進むも引くも困難な状況になったりして、味方が幾度となく死ぬ状況に居合わせなければならないという苦痛。
加えて、直後に出会う困難についてパーティの他の誰も認識していない、という状況にも。
とても面白かったのを覚えている。まぁ、未完というか、断章による「おまけ」みたいなものだったのだけれど。